石橋記念公園

石橋の末長い保存活用のために

鹿児島市の中心を流れる 甲突川 には、かつて上流から 玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋 の5つの大きなアーチ石橋が架かり、「甲突川の五石橋」として県民に親しまれてきました。
この五石橋は、江戸時代末期に城下整備の一環として架けられたもので、薩摩藩の財政改革の成功と肥後(熊本県)から招かれた名石工”岩永三五郎”によって架 橋が実現した歴史的所産です。
また、主に中国から伝わった架橋技術が石垣伝統技術とも融合して独自の発展を遂げた、我が国を代表する石橋群で、創建以来 150年余の間、現役の橋として利用されてきました。

しかしながら、平成5年(1993)8月6日、市街地の約1万2千戸が浸水するなど大災害をもたらした集中豪雨による洪水で、五石橋のうち武之橋と新上 橋が流失してしまいました。
そこで残った3橋は、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、河川改修に合わせて移設して保存することになりました。

移設復元工事は、文化財や土木工学等の専門家の指導、助言を得ながら、県が西田橋を、鹿児島市が高麗橋と玉江橋を行い、あわせて五石橋の歴史や技術等を伝える石橋記念館を整備して平成12年に石橋記念公園として開園しました。(3橋のうち2橋は隣接の祇園之洲公園に移設)

今後、この公園が鹿児島の歴史を知る場の一つとして広く県民に親しまれ、石橋の末長い保存活用に役立つことを願っています。

<西田橋>
九州街道の道筋にあって参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口として藩の威光を誇示した橋で、岩永三五郎の代表作でもあります。石橋への架け替えの際にも、由緒ある橋として木橋時代の青銅製擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど、他の4橋に比べて約3倍もの建設費がかけられました。
 
<復元の考え方>
時代設定:創建時の姿
明治10年以前に取付き階段の斜路への改造、明治43年に縦断改、戦争中に青銅擬宝珠の供出がそれぞれ行われているが、取付きの階段を除き、概ね創建時の状況が把握できる。
 

<西田橋御門>
御門は、城下の玄関口にあった西田橋の性格を表す重要な施設です。発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、残っていた写真や市内の仙巌園の門などから構造仕様を推定して復元的に整備しました。

<高麗橋>
五石橋のうち3番目に架けた橋で、それまでの新上橋や西田橋にくらべて、上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった独特の形状が特徴とされています。この頃から架橋には岩永三五郎の指導のもとで地元の棟梁・山田竜介らが活躍します。橋の両岸、加治屋町と高麗町からは明治維新の志士たちが輩出しています。
 
<復元の考え方>
時代設定:創建時の姿
明治10年以前に取付き階段の斜路への改造が、明治43年に縦断改が、戦争中に青銅擬宝珠の供出が、それぞれ行われているが、取付きの階段を除き、概ね創建時の状況が把握できる。
 

<玉江橋>
五石橋のうち最後に架けられた橋で、城下の中心からはやや離れていますが、伊敷不動堂にお参りする人たちのために造ったともいわれています。他の4橋ほど交通環境の変化による改変は受けていませんが、最上流に位置し、洪水で水切石などがたびたび被害を受けて補修、補強されていました。
 
<復元の考え方>
時代設定:創建時の姿
昭和30年頃までは創建時の姿を留めていたと考えられ、写真などで確認できる。その後、災害で壁石や水切石などが補修で改造されている。
 

五石橋諸元一覧

玉江橋


橋 長 50.7m
幅 員 4.0m
架設年 1849年
建設費 1,560両
4連アーチ

新上橋


橋 長 46.8m
幅 員 4.8m
架設年 1845年
建設費 2,415両
4連アーチ

西田橋


橋 長 49.5m
幅 員 6.2m
架設年 1846年
建設費 7,127両余
4連アーチ

高麗橋


橋 長 54.9m
幅 員 5.4m
架設年 1847年
建設費 2,800両
4連アーチ

武之橋


橋 長 71.0m
幅 員 5.5m
架設年 1848年
建設費 2,400両
5連アーチ